京都市京セラ美術館での『アンディ・ウォーホル・キョウト』開催で、改めて脚光を浴びているアンディ・ウォーホルと言えば、幅広い切り口で語ることができるアーティストだ。音楽もそのひとつで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを世界に紹介した彼が、多数のミュージシャンと交流してきたことはご存知の通り。そんなウォーホルと音楽の関係を、“現在美術家”を名乗る宇川直宏が分析する。
現代アート、グラフィック・デザイン、映像、音楽、文筆…と、まさにウォーホル的にメディアを横断して表現活動を行ない、さる7月に自ら主宰するライヴ・ストリーミング・スタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」でも、『新世紀のアンディ・ウォーホル/New Century Andy Warhol』を題されたプログラムを配信した宇川直宏。深い造詣に基づき、独自の観点に立って、彼ならではの、刺激に満ちたウォーホル×ミュージック論を展開してくれた。
■「あれも彼の仕事だったんだ」とか「これも彼の仕事だったんだ」という、多様性に満ちたアーティスト
──宇川さんはどのようにしてウォーホルの存在を知ったのですか?
ウォーホルって、物心ついたときから「あれも彼の仕事だったんだ」とか「これも彼の仕事だったんだ」という、松坂慶子の「愛の水中花」のリリックのような多様性に満ちたアーティストですよね(笑)。僕は1968年生まれなんですが、中学生のときにいとこに紹介されて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(以下VU)を聴きました。いとこのお兄ちゃんがトランペッターで、ホット・ブラッドの『ソウル・ドラキュラ』から、サン・ラまで、音楽全般をコレクションしていたんです。その一方で、ロンドン・パンクが台頭した1977年に早速パンクのレコードも聞かせてもらっていたので、僕の場合はオリジナル・パンクを聴いた文脈の中にVUもあったんですよ。なぜならVUは“プロト・パンク(パンクの祖)”とも呼ばれています。1967年のフラワー・ムーヴメントのスローガンは“ラヴ&ピース”でしたが、“ラヴ&ピース”の夢破れて、10 年後の1977年にはロンドン・パンクが“ノー・フューチャー”のスローガンを打ち出す。ラヴ&ピースからノー・フューチャーへの橋渡しをする重要な存在として、VUがいたんです。実際に活動していたのはロッキー・エリクソンの13thフロア・エレベーターズや、スカイ・サクソンのザ・シーズと同じ、サイケデリック全盛期を挟んだヒッピー・ムーヴメントなのに、のちのパンクと接続させるようなイメージをもって語られていたのは、やっぱりフロントマンのルー・リードのその後の活動にも拠るんだと思います。彼はアルバム『メタル・マシーン・ミュージック』(1975年)でノイズ/アヴァンギャルドにも最初に着手し、そこからノイズ/インダストリアル・ミュージックが生まれている。あと、やはり、現代音楽畑にいたジョン・ケイルの存在でしょう。彼は、ヤニス・クセナキスに師事し、ジョン・ケージとラモンテ・ヤングに影響を受けている。VUのオリジナル・メンバーがこのようなアヴァンギャルドなアーティストだったということが、サイケデリックの楽園思想や快楽主義的側面に絡め取られることなく、大きなパラダイムシフトを生み出したのではないでしょうか。
──となると、最初に認識したウォーホルの作品は、彼が手掛けたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー・アルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』(1967年)のバナナのジャケットですか?
たぶんそうだと思います。あのジャケットにはバンドの名前が無くて、“Andy Warhol”と書いてあるので(笑)、見せられたときに“アンディ・ウォーホルのアルバムなのだ”とストレートに受け取ったのですが、ジャケットを裏返すと『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』<*1>で演奏したときのスライドと、リキッド・ライトが投影されたパフォーミング・アーツの写真がレイアウトされていた。それを見てサイケデリックなバンドだということを子供ながらに認識しました。でもあのアルバムが登場したのは、ザ・ビートルズが『リボルバー』(1966年)で革新的でサイケデリックな世界観をポップミュージックに昇華したあとでしたよね。僕も先にザ・ビートルズを聴いていたので、初めてVUを聴いたときは、なんてラフな演奏なんだろう、これ、リハーサル?って思いました(笑)。こんなに無防備でいいのか、と。そしてパンク/ニュー・ウェイヴを経て改めて向き合ったときに、VUの本当の真価が理解できたといった感じです。
■ウォーホルのこの2枚のジャケがリビドーに直結した
──ウォーホルについても同時に知識を深めていったんでしょうか?
そうですね。80年代に差し掛かる頃には、いろんなアルバム・ジャケットを見て「これはウォーホルが手掛けたんだな」ということが子供ながらにわかってきて(笑)。例えば、ザ・ローリング・ストーンズの『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)と『ラヴ・ユー・ライヴ』(1977年)もそうですね。ま、今度は内ジャケにですが、また、“Andy Warhol”ってサインが入ってるので、わかって当然なんですが(笑)。しかも、『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド~』のジャケットにはバナナの皮のステッカーが貼られていましたが、『スティッキー・フィンガーズ』のジャケットにはジッパーがついていて、引きおろすと、ブリーフがみえる。そして内ジャケを引き出すと、硬直したペニスの陰影がブリーフに浮かび上がっている。そこでようやく、VUのバナナの意味が理解できました。僕自身、フロイトのいう男根期(エディプス期)も潜伏期も通過して、性器期(青年期)に差しかかっていたので、よりウォーホルのこの2枚のジャケがリビドーに直結したといえます。というか、そのような本能や欲動を刺激するメタファーを用いてユースカルチャーを煽っているウォーホルに、幼いながらにもパンク・アティテュードを感じたものです。ステッカーの皮を剥いて、露わになるバナナは黄色ではなく肌色だし(肌色という言葉自体が現在禁じられています)。紙ジャケにジッパーをつける行為は、重ねたときに手前のジャケットにダメージを与えるので、流通的には完全にアウトだし。僕自身も21歳でグラフィック・デザイナーになって、その後、特殊ジャケットをたくさん手掛けました。『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド~』のバナナのパロディも作りましたよ。Crue-L Grand Orchestraの『FAMILY PT1 CORNELIUS REMIX』なんですが、アメリカにあるチョコレートでコーティングしたバナナのアイスクリームを引用していて、ステッカーを剥がすと溶けたアイスにアリが集まっているという、ウォーホルへとサルバドール・ダリへのオマージュです(笑)。
■ウォーホルは現行のメディア・アーティストような活動を60年代にすでに始めていた
──ウォーホルは1966年にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのマネージャーになり、『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』をプロデュースします。すでにアーティストとして大きな成功を収めていた彼は、なぜあのタイミングでバンドに目を向けたのでしょう?
ウォーホルは当時『エクスパンデッド・シネマ』<*2>と呼ばれていた実験映画に着手していましたし、インターメディア(現在で言うメディアアート)な展開に生涯に渡って興味を持っていたんですよ。1981年には、ブロードウェイのプロデューサー、ルイス・アレンと共同プロデュースで『アンディ・ウォーホル、ノーマン・ショー』というタイトル巡回型のマルチメディア・ステージにも着手し、現在の石黒浩先生のマツコロイドや、テツコロイドのようなアンドロイドもすでに作成していました。1987年に他界したのでそのプロジェクトは未遂のままですが。現行のメディア・アーティストのような活動を60年代にすでに始めていたんです。映像表現についても、実験映画だけではなく、自分が物語を構築するのは相応しくないと思ったのか、「ファクトリー」<*3>のメンバーのポール・モリセイを監督に起用して劇映画の世界にも進出しますよね。その第一弾が『悪魔のはらわた』(1973年)なんですが、あれは3D映画なんです。あとはいち早くケーブルTVに着目し『Andy Warhol’s TV』(1979~87年)<*4>という自身のテレビ番組を放送したり、ポラロイドから3Dカメラ、コンパクトカメラから一眼レフまで写真もあらゆるフォーマットでずっと撮り続けていました。興味の対象があまりにも広かったので、音楽も常に表現軸として意識していて、自分が演奏するかしないかではなく、トレンドとして見極めていました。例えばシルクスクリーン作品にしても、描くという行為を早々と放棄していましたから(笑)。アシスタントのジェラード・マランガが選んだ図版をウォーホルが確認して、「それ、いいね」とジャッジを下す、あとは勝手に作品が出来上がってくる、まさに「ファクトリー」における工場長のポジションでした(笑)。そういう”世界をオーガナイズする” プラットフォーマー的な感覚で音楽に映像にも接していたんだと思うんです。そして、『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』というインターメディア・パフォーマンスを手掛けるにあたってミュージシャンを探していたときに、VUが引っかかった。それは、すごくわかる気がしますね。
■「スタジオ54の成功のカギは、入り口での独裁権とダンスフロアでの民主主義にある」と
──ウォーホルにヴェルヴェット・アンダーグラウンドを推薦したのも、マランガだったそうですね。
はい。これは僕自身の話にも繋がるのですが、マランガのパートナーのASAKOちゃんは僕の友達で、2人の馴れ初めになった展覧会は、渋谷陽一さんと一緒に『rockin’on』を立ち上げたデザイナーの大類信さんのギャラリーTHE DEEPでの、マランガの写真展なんです。そこで展示するマランガの映像を当時20歳だった僕が編集したこともあって、マランガとも何度か会って、当時の話を直接聞いています。そう、この『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』でも彼がオーガナイザーの役割を果たしていて、自らダンサー兼タンバリン奏者としてVUのパフォーマンスに参加しているんですよ。映像作家のジョナス・メカスが撮影したライヴ映像がインターネット上にありますので、探してみて下さい。冒頭でイーディ・セジウィックと一緒に出てきますし、『毛皮のヴィーナス』では鞭を振り回して暴れています(笑)。マランガは、60年代〜70年代は夜な夜なウォーホルに同行してクラブに入り浸っていて、ウォーホルの音楽遍歴はだいたい一緒に体験しているんです。60年代のサイケデリック・ムーヴメントの殿堂フィルモア・イーストに始まり、エレクトリック・サーカス<*5>のようなサイケデリック・クラブにも行くようになる。そのあとディスコティックの文化がニュー・ウェイヴと合体してポストパンクの流れを作り、後のハウス・ミュージックに接続されていくんです。ニューヨークではラリー・レヴァンがDJを務めるゲイ・ディスコのパラダイス・ガラージが後のクラブ・カルチャーに移行するパラダイムのひとつで、そこでウォーホルはキース・へリングと行動を共にしています。そこで当時のニューヨークのディーヴァだったグレイス・ジョーンズにも出会います。並行に、当時のニューヨークのセレブが挙って行っていた1977年オープンのイアン・シュレーガーとスティーブ・ルベルによる伝説のディスコティック、スタジオ54の常連でもあって、80年代までのアンダーグラウンドとメインストリームの社交カルチャーほぼ全域に関与していた。当時のスタジオ54は“ヴェルヴェット・コード”と呼ばれる厳しい入場チェックがあり、セレブ以外入れなかった。呼ばれていないのに顔パスで入って、踊りもせずに著名人たちと会話をして帰る──みたいな(笑)。ウォーホルはこう語っていますね。「スタジオ54の成功のカギは、入り口での独裁権とダンスフロアでの民主主義にある」と。ザ・ドアーズが初めてニューヨークでライヴを行なったときにもウォーホルは観に来て、その様子は映画『ドアーズ』(1991年)にも描かれています。つまりイケてると言われているトレンドセッター的ミュージシャンのパフォーマンスや、最前衛のアンダーグラウンド・パーティーのすべてに彼は出没していたのです。そうやって先鋭な音が鳴っている現場に頻繁に足を運んでいるから、ミュージック・シーンとの接続が常にできていたのでしょうね。まるで現在の僕ですね(笑)。
■映画スターの写真を切り抜いてコレクションしたり、模写したりしていた
──ちなみに、ウォーホル自身がプライベートで好んで聴いていたのは、クラシック音楽やオペラやミュージカル音楽だったそうです。
クラシックとオペラは本当に好きだったんだと思います。あと彼は、現代アーティストになる以前の50年代、当時20代のイラストレーターだった時期に、ビバップのパイオニアであるセロニアス・モンクや、アヴァンギャルド・ジャズのムーンドッグなどジャズ系アーティストのアルバム・ジャケットを手掛けていますね。その後ポール・アンカやライザ・ミネリのアルバム・ジャケットも手掛けていて、ロックだけじゃなく、ジャズやブロードウェイ的なショウアップされた世界にも憧れを持っていた。とにかくネームバリューがあるスター的存在への憧れがものすごくあって、自分もそうなりたいという欲求がウォーホルをアーティストにさせたのです。ウォーホルは幼少期にシデナム舞踏病にかかって、身体から色素を失ってしまい、引きこもりになったんです。少年時代の内気だった彼は、お母さんにハリウッドの映画雑誌を与えられ、映画スターの写真を切り抜いてコレクションしたり、模写したりしていました。それが氏のアイデンティティ形成には重要で、それが創作の源になっていたと聞きます。
■熱狂的有名人崇拝や、大量生産、大量消費のようなアメリカの光と陰が作品コンセプト
──ウォーホル自身も有名人になりましたが、それでも憧れはなくならなかったんですね。
なくなりませんでした。現在人気を集めている存在は全員好き(笑)。常にファン目線で、最晩年まで著名人と出会うとサインをもらっていたと聞きました。熱狂的有名人崇拝や、大量生産、大量消費のようなアメリカの光と陰が作品コンセプトだから、その行動も活動理念に一貫しているのです。あらゆる熱狂をコレクションしようとしてポラロイド写真を撮り、16ミリを回して『スクリーンテスト』<*6>を始めたんだと思います。僕が「DOMMUNE」で制作した番組『新世紀のアンディ・ウォーホル/New Century Andy Warhol』で、美術評論家の小崎哲哉さんが、「ウォーホルは著名人をコレクションし、あたかもニューヨークを飛び回る珍しい昆虫を捉えるかのように採集していた」と言っていました。本当にその通りだと思いますし、それがのちのシルクスクリーンのポートレイト作品に繋がっていく。「スターの肖像」シリーズも最初にミュージシャンとしては、熱狂の表象としてエルヴィス・プレスリーを選んだ。とにかく、自分の作品を華やかなステージに引き上げてくれるアイコンを常に探し求め、それを世が認知し、ウォーホル自身が名声を得ると、今度は自分の有名性を使ってポートレイト作品を作るという“家業”を始めます。彼は著名人たちからオーダーを受けて、1枚2万5千ドルでポートレイト作品の制作を請け負っていました。そこで依頼したのが坂本龍一さんだったり、ジョン・レノンだったり、アレサ・フランクリンだったり…。日本人アーティストではほかにラッツ&スターも、アルバム『SOUL VACATION』(1983年)のジャケットに使われたポートレイトを依頼していて、今もレコード会社の倉庫に眠っているらしいですよ(笑)。当時の彼は「お金を稼ぐことはアートだ。働くことはアートだ。ビジネスで成功することは最高のアートだ。」と語り、非難を浴びたりもしました。
■バナナを剥くという行為を、12インチ・ジャケットの2フレームの時間軸の中に閉じ込めた
──ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの話に戻りますが、アルバムの音楽性とはまったく関係のないバナナをジャケットに描いた、ウォーホルの意図について、宇川さんなりのセオリーはありますか?
まず、自分の作品に対する無頓着さ、描くという行為に対しての批評性が、ウォーホルのオリジナリティであると思っています。例えば牛をモチーフにしたシルクスクリーン作品「牛の壁紙」がありますよね。あれも、マランガが古本屋で次の作品のネタを探していて付箋を貼っていたキャラクターらしいです。それをウォーホルに見せて、「いいんじゃない」の一言で決まった。やはりウォーホルはマルセル・デュシャンに憧れていたので、大量生産された既製品からその本来の機能を剥奪し彫刻化するレディメイドの概念を、自分なりにアップデートしたかったのだと思います。その表現手法としてシルクスクリーンや印刷もあった。例えば、シルクスクリーンであれば、先ほどお話したように対象を“選ぶ”という作家としての作品への関与がありましたよね。そのうえでその対象を手で刷ることによって、ズレや歪みや掠れが作品の唯一無二性を担保していた。
そのうえであのバナナに関して考えると、やっぱり印刷なので、寸分狂わぬ再現性が前提として大量生産される。その上で、まったく特殊なアプローチを実現したかったんだと思います。そこで編み出されたのが時間軸です。ステッカーを剥がしたら次のイメージが出てきて、ふたつのフレームで物語が形成される。シール文化における食玩の世界にはかつて2層構造はあったんですけど、それをジャケットに転換したというのがなかなか新しくて。バナナの皮を剥くという行為を、12インチのジャケットの2フレームの時間軸の中に閉じ込めた、これはとんでもない発明だなと思っています。これも『エクスパンデッド・シネマ』の表現のひとつなのかな、と。『エクスパンデッド・シネマ』は拡張映画とも呼ばれていて、当時様々な実験がなされていました。ウォーホルも『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』で、『カウチ』(1964年)や『ヴィニール』(1965年)など過去に撮った実験映画作品を演奏者に投影し、当時はまだ新しかったストロボやカラー・ライティングやスモーク、そしてリキッド・ライティングなど、最先端の空間を変容させる演出装置を取り入れていた。それに近い感覚で、バナナを剥くという2フレームの時間軸をジャケットに封じ込めたんだと思うんです。だから、バナナを食べるところまでは行っていない。例えば『イート』(1963年)は食べるというアクションを延々とただ撮っている映画で、これも行為それ自体の時間軸をそのまま残している。バナナのジャケットはその手前の行為に潜む時間ですね。そういう『エクスパンデッド・シネマ』の究極を、彼はレコード・ジャケットをスクリーンに見立てて表現したんだと思っています。たぶん、世界中で誰もこんなことは言っていないと思いますけど(笑)。
──その『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』は、かつてなかった革新的なマルチメディア・ライヴ・パフォーマンスでしたが、今思うと、例えばU2などがテクノロジーを駆使して見せるスペクタクルの原点とも言えるのでしょうか?
そうですね。1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルと1969年のウッドストック・フェスティバルのステージ演出のひとつの流れとして、映像とOHPとリキッド・ライトを用いたパフォーマンスがあったんですが、ウォーホルはその前に『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』をやっています。だから『エクスパンデッド・シネマ』の“拡張する”という行為が、レコード・ジャケットにも、インターメディア・イベントにも発展していったんだと僕は思っていて。ウォーホルが拡張したひとつの方法が音楽と接続され、のちのメディアアートだったり、オーディオ・ヴィジュアルの展開に接続されていたりもします。
■ウォーホルって全部一発なんですよ(笑)
──そして70年代以降もウォーホルは音楽界と関わりを持ち、80年代に入ってミュージック・ビデオの監督を務めました。しかし手掛けたのは、ザ・カーズの『ハロー・アゲイン』(1984年)だけ。彼はミュージック・ビデオという表現に、面白みを感じなかったのかもしれないですね。
面白みは感じていたと思うんですが、黎明期のミュージック・ビデオって一発の実験では受け入れられなかった側面があります。ウォーホルって全部一発なんですよ(笑)。編集作業やクリエイティヴの積み上げを退屈に捉えていたと僕は見ていて、たぶんミュージック・ビデオが『エクスパンデッド・シネマ』の可能性のひとつだと自覚していたと思うんですけど、彼には向いていなかったのかもしれない。かといってこの時代も音楽と密接な関係にあり、さっき話したように、シルクスクリーンのポートレイト作品をレコード・ジャケット用にオーダーする人々がどんどん増えていった時代です。それに80年代初頭のウォーホルは、自分自身をプロデュースして前に出ていく方向に、マインドが切り替わっていた。先述の『Andy Warhol’s TV』のように自分が看板となりテレビ番組を作り始めていた時期で、自らプロデュース側ではなく、ロックスター側のステージに移行していった時代でしたよね。そういう時期に重なるから、ミュージック・ビデオの世界に深くコミットしようとは思わなかったんでしょうね。
■彼の作品は大変音楽的で、存在自体がロックスターのそれと等しい
──そんなウォーホルをインスピレーション源と位置付けるミュージシャンは、デヴィッド・ボウイからレディー・ガガまで、少なくありません。その理由はどこにあると思いますか?
ウォーホルはセレブリティの世界を覗き込むのが好きでした。お母さんに与えられた映画雑誌を通じて憧れを持っていたという話を先ほどしましたが、そういう覗き趣味/ゴシップ趣味が彼の活動の源というか、クリエイティヴの原点だと思うんですよ。そしてウォーホルがミュージシャンにリスペクトされ続けている理由は、メインストリームやアート・マーケットでの活動と並行して、常にアンダーグラウンドにも身を置いていたからなんでしょうね。60年代の彼は、ファイン・アートをやりながらデザインも手掛けていた。聖と俗というか、俗なる世界にもどっぷりだったんです。そして80年代に入ると、今度はジャン=ミシェル・バスキアやキース・へリングとつながりますよね。80年代のニューヨークはヒップホップの時代で、ヒップホップの文化を支えた四大要素のひとつがグラフィティ・アートだったわけですが、ウォーホルもサブウェイ・アートやスプレーカン・アートと言われていた黎明期のグラフィティに大変興味を示していました。ヘリングとバスキアにタスキを渡すことによって、同時に自分自身もストリートの側からの支持を仰ぎたいという目論見もあったでしょう。だから後輩とコラボレーションをした。こうしてウォーホルはアンダーグラウンド、そしてストリートとも接触し、ポップアートとグラフィティ・アートの蜜月も果たされた。後にはバンクシーやシェパード・フェアリーもオマージュ作品を作っているように、ウォーホルにリスペクトを表明し続けていますよね。これもやはり、セレブリティの世界だけではなく、現代アートをポップ・フィールド、そしてアンダーグラウンド、さらにはストリートに開放したからなんです。音楽にもまったく同じことが言えますよね。セレブリティを魅了する高尚なクラシック音楽の、歴史に残る作家の音楽は、モーツァルトもバッハもベートーベンも記譜され、譜面を通じて現在も演奏され、世紀をまたいで人々の心を魅了し続けている。それをファイン・アートの世界にあてはめるならば、ブリューゲルもラファエロもフェルメールもダ・ヴィンチも、ずっと語られ、愛され続ける、美術史を形成する重要な作品じゃないですか。その対極にあるのが、デザイン/商業美術の世界。どんどん新しいものを生産して、消費させて、また新しいドレンドを煽って消費させる──そのような新陳代謝が激しい文脈があって、ウォーホルはそのことをコンセプトにするばかりか、常に両側に身を投じていた。彼はこんなことを言っています。「アンディ・ウォーホルのすべてを知りたいのなら、僕の絵、僕の映画、僕自身の表面だけを見てくれればいい、僕はそこにいる。裏側には何もないんだ」。この言葉には確実に裏がありますよね(笑)。“ペラペラでトレンディーな表層を見てくれ、それがすべてだ”というコンセプトなんです(笑)。メタですね。「俺たちは、金のためだけにやってるんだ(We’re Only In It For The Money)」というタイトルのフランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバムや、セックス・ピストルズの『プリティ・ヴェイカント』で、ジョニー・ロットンが「俺たちは中身空っぽの阿呆さ」と歌ったように、このようなアナーキーでアヴァンギャルドな佇まいがコンセプトとして見極められる。だから彼の作品は大変音楽的で、存在自体がロックスターのそれと等しい。だからミュージシャンに愛され続けるのは理解できるし、アンダーグラウンド側からもストリート側からもポップ側からもファイン・アート側からも、誰もが自分たちのヒーローだと思えるような構造になっているんですよ。
■ウォーホルはすでにネットワークとプラットフォームについて考えていた
──ここ数年、『アンディ・ウォーホル・キョウト』以外にも続々大型の展覧会が開催されたり、Netflixでドキュメンタリー・シリーズ『アンディ・ウォーホル・ダイアリーズ』が配信されたりしていますが、ウォーホルが改めて脚光を浴びているのはなぜだと思いますか?
「DOMMUNE」の番組でも回答を出したんですが、ウォーホルはむしろ“今”なんですよ。何が今かと言うと、まずはインターネット的なんです。彼は、60年代アメリカの大量生産・大量消費を筆頭に、母国のエクストリームな佇まい自体を作品に投影し、評価を受けた。大量に生産するには常にテクノロジーが関係していて、コンセプトに準じ、自らの表現手法も大量に刷れるシルクスクリーンを選びエディションをつけた。現在ならばコピーが容易なデジタルデータに対し、唯一無二な資産的価値をNFTで付与できるけど、物理空間でのコミュニケーションがすべてだった時代に、ウォーホルはすでにネットワークとプラットフォームについて考えていた。それが「ファクトリー」という空間でした。「ファクトリー」が放つ磁場に人々は集い、そこからスーパースターを生み出し、メディアを通じて拡散した。昨日までクラブに入り浸っていた無名の若者が、翌日からスターになり、インフルエンサーになる。そんな装置を60 年代に作ったんです。それはまさに今のSNSがやっていることで、ウォーホルは “ファクトリー・ネットワーキング・サービス”というシステムを作ったに等しい。これは極めてインスタグラム的、TikTok的で、作品制作をしながら同時に、ポップ・アイコンとして、インフルエンサーとして、イットガールとして機能するようなキャラクターを送り出していたんです。言ってみれば70年代の欽ちゃんファミリーや、80年代のたけし軍団みたいな感じで(笑)、そのまんま東や、つまみ枝豆や、ガダルカナル・タカや、ダンカンや、水道橋博士がいて、イーディやオンディーヌ、ヴィヴァ、ウルトラ・バイオレット、ニコなどがいた。そして、ひとりひとり際立った活動をするようになっていく。
──なるほど、たけし軍団と訊くとわかりやすいですね。
それに彼のポートレイト作品は、セレブの肖像を描くという行為なんですが、そのアバター性も、ソーシャルメディアで交流するときに誰もが纏うプロフィール・アイコンのシンボリックなキャラクターに通じるところがあります。そして現在はインスタグラム用に、セルフ・ポートレイトを盛るたくさんのアプリやプラグインがありますよね。つまりウォーホルのシルクスクリーンは盛りのためのプラグインで、そのようなエフェクティヴな行為を、今ではみんな自らの日常に施して、それを自分のアバターとして広めている。実空間と並行で、そんなSNSのプラットフォームの中でも同時に我々は生きている。「誰もが15分間なら有名になれる。いずれそんな時代がくるだろう」とウォーホルは現在を予言し、「ファクトリー」を作りました。そして「ファクトリー」は、“コミュニティ”から“コレクティヴ”へ、そして“コミュニケーション・プラットフォーム”への橋渡しをした存在だとも思っています。60年代はコミュニティの時代で、センターに司祭(スーパースター)がいてそこに人々が群がるという中央集権的な関係性でしたが、コレクティヴは全員がアーティストでスーパースター。当初はアーティストを支えるアシスタントとのシルクスクリーン工房としてのコミュニティだった「ファクトリー」は、世界中から魑魅魍魎が集まることでコレクティヴへと昇華し、コミュニケーション・プラットフォームへと進化していった。Web2.0からWeb3.0に移行する文脈が、60年代の「ファクトリー」ですでに起きていたんです。
■ウォーホルの先駆的活動はインターネット以降の表現軸をまとっていた
またウォーホルはブログの先駆者として、日々の出来事や心情をコンパクトにまとめて、ライフログを残してきました。その際に活用していたのがテープレコーダーであり、のちに電話になる。1989年に出版された『ウォーホル日記』は、電話で彼が日々起きた出来事をアシスタントのパット・ハケットに伝え、録音し、テキストに起こした書籍で、すでにブログからポッドキャストへの進化も編み出していた。そしてそこに映像が介入するとYouTuberになりますが、80年代にはケーブルTVで『Andy Warhol’s TV』が始まりますし、ウォーホルは出る側でもあるし、撮る側でもあった。撮る側に立っていたのが『スクリーンテスト』。「ファクトリー」を訪れた著名人を16ミリの1リールで撮影した『スクリーンテスト』は、編集無しに切り取られた時間軸なので、極めてライヴ・ストリーミング的なんですよ。そしてもうひとつはポラロイド写真です。彼は現像を待てず、撮影した瞬間に現像が始まり日常をコレクションできるという行為に魅了されていましたが、これってデジタルカメラと同義ですよね。またそれを展示することでインスタグラム的な日常時間の共有も果たしていた。そもそもポラロイド写真を元ネタにシルクスクリーンは制作されていたわけですしね。つまりインターネット以降のネットワーク、ソ-シャルメディア以降のコミュニケーション、極度に加速化された日常や、短絡的に他者と繋がっていく感覚を、60年代から纏いつづけてきたアーティストなんです。ひいては「ファクトリー」はメタバース的でもあって、「ファクトリー」こそがニューヨークのデジタル・ツイン、もしくはミラー・ワールド的な機能を果たしていたんじゃないかという、僕の妄想も入った文脈に掘り下げることもできます。このように、ウォーホルの先駆的活動がすでにインターネット以降の表現軸をまとっていて、彼自身がインターネット的な存在だったのだとここに改めて断言させてください。だからこそ、ウォーホルはむしろ”今”だと思うのです。だから、最新の展覧会である『アンディ・ウォーホル・キョウト』は、現代を生きる表現者なら絶対に体験しておかねばならない、そんな時空を形成しているのだと言い切れます。
INTERVIEW&TEXT BY 新谷洋子
<*1>『エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル』:初演は1966年1月、音楽とダンスと映像と照明を組み合わせてウォーホルが作り上げた、画期的なマルチメディア・パフォーマンス。このイベントで演奏を披露したのがヴェルヴェット・アンダーグラウンドだった。
<*2>『エクスパンデッド・シネマ』:従来のスクリーンに映す形式とは異なる方法で上映される映像作品を指す。1960年代半ば以降,様々な試みがなされた。
<*3>「ファクトリー」:ウォーホルが1964年にニューヨークに構えたアトリエ。有名・無名のアーティストたちが集まるサロンとしても機能していた。
<*4>『Andy Warhol’s TV』:1983~1984年に放映されたテレビ番組。ウォーホル自らプロデュースし、ホストを務めて、アーティストやセレブリティをインタヴューした。
<*5>「エレクトリック・サーカス」:ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあったクラブ。
<*6>『スクリーンテスト』:固定カメラで約3分間にわたって被写体を撮影するという映像シリーズ作品(1964~1966年)。アレン・ギンスバーグやデニス・ホッパー、ルー・リード、ニコらが登場した。
プロフィール
宇川直宏
ウカワナオヒロ/1968年生まれ。映像作家、グラフィック・デザイナー、ミュージック・ビデオディレクター、VJ、文筆家、京都造形大学教授、“現在美術家”など、多岐にわたる活動を行なう全方位的アーティスト。2010年3月に個人で開局したライブストリーミング・チャンネル「DOMMUNE」は、開局と同時に記録的なビューアー数となり、国内外で話題を呼ぶ。「DOMMUNE」は、平成22年度[第14回]文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品に選出。