■人生の重要なターニングポイントである僕の「Class of 2011」。
マンハッタンからブルックリンに移ってきた日のことを鮮明に覚えている。空はどこまでも高く澄んでいて真っ青だった。マンハッタン島にいる時も同じ色を眺めてたはずなのに、どこか違うと呟いた。高い建物が少なくマンハッタンにあるようなスカイスクレーパーなどダウンタウンに凝縮して立つ以外どこにも無い。本当にのどかな町なのだ。
「ああ、都落ちしちゃったなあ」。
ちょっぴり寂しい気持ちで1ヵ月のサブレット(家具付きの又貸しの部屋)にぴ(愛犬のダックス)と転がり込んだ。2011年の夏。
僕にとって重要な年だった。ジャズがやりたい、ただそれだけで確固たる将来のビジョンなど描かないままアメリカにやってきた僕の学生生活はあと1セメスターで終わろうとしていた。同期や後から入ってきた生徒たちはアメリカのフレキシブルなカリキュラムでどんどん飛び級で卒業していく。何も知らないままジャズの学校に入った僕はじっくりゆっくり勉強しているうちにすっかりみんなに追い越されプロとしては「浦島太郎」になろうとしていた。
2年進級時にソフォモアジュリーという試験がある。プロのミュージシャンと組んで学校のファカルティーから無作為で選ばれたジュリー(審査員)の前で演奏をする試験だ。それに死に物狂いで準備をして見事「合格」を果たした僕は一気に本格的なジャズの世界を広げるためのチャンスを手に入れた。
ジャズビッグバンドやビバップの専門クラスや高度な聴音のクラス、学校の自慢のジャズブルースピアニスト、ジュニア・マンスのブルースのクラスなど専門的なジャズを学ぶ切符を手に入れた。しかしそれはオーデイションを受ける切符であり実際はそれぞれオーデイションを受けて合格する必要がある。クラスに入るのはなかなか難しかったが僕は一つひとつそのハードルをクリアしつつあった。人生の重要なターニングポイントである僕の「Class of 2011」。
オーデイションは不公平だなと思うことも多かった。ベースなどの楽器は1人しか受けてなかったりすることもあって、その場合その人がそのまま合格ということもあった。しかしピアノは違う。ロシアやイスラエルやアルゼンチンから毎セメスター新顔の猛者が顔を揃える。そんな連中がいつも大概7〜8人いる。「Senri、次はお前だからな」そう先生に言われ受けたオーデイションでまた誰かに先を越されてションボリすることも多かった。
ちょうどこの4年の夏、充当に行けば後半年というところまで来た時に、その先のビジョンを否が応でも考えなければならなかった。ちょっとづつジャズっぽくなりつつあった僕はわけが分からぬまま入学した頃と違って“アメリカに残りたい”と真剣に思い始めていた。
世の中に残るようなジャズスタンダードを自分で描きあげたくなったのだ。その春、ルームメイトが先に卒業して独立して1人でアッパーイーストに住むようになった。僕は春学期を5月に終え一旦荷物を倉庫へ入れマンハッタンのアパートを引き払った。ぴと転がり込んだ場所、それがさっきのブルックリンハイツのスタジオタイプのサブレットだったというわけだ。
アメリカでは卒業のクラスを「Class of〜」という言い方をするけれど、僕の「Class of 2011」はオリジナルを作る作家でありピアニストとしてアメリカに残ることを決意した年だった。
ちょうどこの4年の夏、その部屋の持ち主で母国に夏の間帰ってるコリアンの持ち主から「部屋に残した食べ物はなんでも自由に食べていいからね」と言われ冷蔵庫にあったキムチを頬張り辛ラーメンを作って扇風機にあたりながら汗ダラダラで自分の将来を考えた。クインテットがいいかもしれない。フロントに2人ほどホーンを置いて、僕自身は若干後ろの位置でピアノを黙々と弾くのだ。「この曲の作曲は誰?」そう客が聞くと「ほら、あの」と誰かが指さすのがちょっと引っ込んでる場所にいる僕だった。そんな絵を思い浮かべバンド構成を考える。まだ曲も作ってないのに。この時僕は52歳。
もうすでに卒業している先輩たちで作ったビッグバンドに入るチャンスがありその中心メンバーとセッションしているうち、“卒業記念にジャズアルバムを1枚作ってもしダメだったらジャズはきっぱり諦めよう”そう思った。
それまでのNYでの学生生活でジャズの世界が自分の想像よりもうんと厳しいものなのを重々分かっていたし、実力だって自分ほど弾ける人はNYにはごまんといる。でも僕は日本でシンガーソングライターだった。曲が描ける。だからこの3年半でアメリカのジャズ学校で習ってきた知識を活かして「これが僕の思うジャズスタンダードです」というものを示せばいい。夢を諦めるのはそれからでも遅くないと思った。
早速周りの友達の手を借りながらジャズデビュー盤である『Boys Mature Slow(男子成熟するには時間を要す)』を作り始めた。無我夢中で曲を書いて気がついたらレコーデイングへ突入してた。
その頃の様子は詳しく書籍『9番目の音を探して』に備忘録としても書いておいたので興味のある方はそちらも読んでいただきたい。とにかく僕はメンターでもある聴音の先生に相談してどうせならばOPT(インターンをしながら卒業後1年はアメリカに残れる)をとってモラトリアム時間を手に入れてアメリカで生き残るため動き始めた。
同期のイスラエル人のギターリスト、ローテム・シバンと一緒にOPTの申請に行って講習を受けての帰り道、「お互いにアメリカに残れればいいね」、「その時には一緒に演奏できるかもしれないな」と話して笑いながら握手をした。僕は結局彼の卒業よりももう1学期かけて4年半で卒業した。そしてこの間にPND RECORDS(Peace Never Die Records)を立ち上げて自分のビザの申請をしにロイヤーのオフィスをノックした。運命の「Class of 2012」。
■『Class of ’88』は現在進行形の僕の音楽を表現した作品集
話が随分遠回りしたが40周年記念作品である最新作『Class of ’88』はここからスタートした僕のジャズのキャリア、そして日本でのポップアーテイストとしてのキャリアで書いた曲をジャズへ変換させ、新曲を加え、現在進行形の僕の音楽を表現した作品集ということになる。
人生は自分が思うよりあっという間に進むし何度卒業を繰り返せば成熟にたどり着くのか、と思う。もしかして成熟など一生手が届かないのかもしれない。
“私小説をポップスで書こう”とチャレンジした『1234』というアルバムを作った88年。この年は僕にとって音楽とともに生きる切符を手に入れた年だった。今回ポップス時代の曲をジャズにしようと思った時選曲はその時代に曲を見つけ愛し続けてくれた同時代を生きるリスナーの人たちのリクエストをベースにしようと思った。アレンジを開始した時、すんなりこの、『Class of 〜』というタイトルが頭に浮かんだ。“このクラスはいつだろう?”そう自問自答した時、デビューの’83、『未成年』を出した’85、『1234』の’88、『APOLLO』の’90あたり?と直感で閃いたけれど、なんだかやはり88かなと直感で思った。そうだ、『Class of ’88』にしよう。
ブルックリンハイツのキムチのアパートを1ヵ月で出た僕は、ぴとそのあと10年以上も住むことになる音楽の根城を見つけ引っ越した。そこで始まった生活がジャズピアニストそして作曲家としてのスタートになる。「Boys Mature Slow」「Spooky Hotel」「Collective Scribble」「Answer July」「Boys & Girls」「Hmmm」をそこで制作発表する。
パンデミックの後半に大家から自分たちが住みたいのでSenriには別の物件に移ってほしいと持ち掛けられて引っ越しをした。音楽制作において教会のようなアパートを去り新たな場所で7枚目の『Letter to N.Y.』を作った。
■そのまんまのあの頃の作品へのリスペクトを現代に楽しく音にしてみよう、それにはまず「原点」に戻ろう
『Class of ’88』の曲の話に移ろう。リクエストを募集した掲示板に集まった様々なリクエストとその理由を読み進むと自分でも忘れかけてた曲もありその頃を思い出しノスタルジーに浸った。2022年暮れあたり第1期の候補の曲の絞込みをする。年が明けてすぐソロで一旦日本へ帰り芦屋でコンサートをしている。「魚になりたい」「竹林をぬけて」「Glory Days」「サボタージュ」「ふたつの宿題」なんかはその時実際にお客さんの前で演奏しているし「man on the earth」「power」「Bed time stories」などのアレンジもスタートさせていた。絶対ここら辺はジャズにすると面白いと睨んでいた。
音イメージとしてはせっかくパンデミックで「1人ジャズ」としてPCで作った『Letter to N.Y.』があるのだからバンドにコンピューターの音を加えたものが面白いだろうとぼんやり模索をし続けた。ただ2023年になり1月が無意味に過ぎ一向にその先が見えなかった。ブルックリンに住む新しい自分の音を探すあまり自分自身を見失いかけていた。僕の音楽はメロデイとコード進行と日本語の歌詞だ。何もジャズだからとあれこれ極端に変える必要はない。そのまんまのあの頃の作品へのリスペクトを現代に楽しく音にしてみよう、それにはまず「原点」に戻ろうと思い立った途端、一気に殻をぶち破ったように世界が見えてきた。
「APLLO」は初めてNYに降り立った「Class of ’89」。その足で知り合ったばかりのニューヨーカーのアパートに転がり込んで作った曲だ。雪が舞い込むユニバーシテイープレイスのアパート。当時日本で住んでいた駒沢のマンションの散らかった部屋の様子を「ニュースとリモコンを手に床で肘をつく君と乾燥機とサイレントツツジが匂う」とAメロで表現してみた。身震いするほど刺激を受けたその数日のNYの時間の中で、「当たり前の未来を当たり前に追い越してもう何が起こっても驚きはしない」とありのままアパートにあるピアノを叩きながら作り歌った。あれが「Class of 2023」の現在にいる僕の心に無性に響いたので、その続きを書くような気持ちで、変拍子のインストに変化させた。サビはワルツなので少し歳を重ねて温和になった人生を楽しむ余裕がある。ジャズの醍醐味である拍子の面白さをふんだんに活用して原曲にある景色を今いる場所へとつないでみる。
「きみと生きたい」は自分の中で長いこと「バラード」という意識があった。しかしニューヨーカーのスタッフの意見を聞いてラテンにしてみたらピタッと決まった。NYは住む人のルーツがはっきりしている場所だ。どこからきたの?どこにルーツがあるの?初対面に人に必ず聞かれる。僕はヒスパニックではないしカリブの出身でもないのでラテンは70年代80年代に聴いて間接的に影響を与えられたポップスが緩衝材になる。ラーセン・フェイトン・バンドのキャッチーなフレーズにヒントをもらった。
「竹林をぬけて」もリクエストの多かった曲だ。原曲の入ってるアルバム『APOLLO』をNYでレコーデイングしている時、セントラルパークサウスのホテルの窓からパークを見下ろしながら途方に暮れた曲だ。3つのサビといってもいいほどの強力なメロデイを転調で繋ぎ1曲に仕立て上げ、清水信之氏がダンサブルなアレンジを施した。そこにとっておきの歌詞を載せ歌入れをするのがNY滞在の僕のミッションだった。しかしNYで見る景色は匂いも色も人種も貧富の差もあまりにどれもが強烈で生々しく、当時の僕の持つ絵の具では描ききれなかった。チューブの最後の一滴を絞り切るように歌詞を書いた。今回のアレンジはイントロがウオーキングベース、ドラムがドラムンベース。ピアノはメロデイを牽引する。しかし原曲とは休符の取り方がまるで別物だ。1月の芦屋コンサートの時にやった「竹林」のBメロを左手に任せるところなど効果的なアイデアを残しつつ、乗り重視で一気に演奏した。
「STELLA’S COUGH」は本番レコーデイングの1週間前突如思いつく。サビ全部をA♭7から半音づつ降りていくコード進行は「ずっと物語が続く」モーションを強調した。ロス・ペダーソンもドラムのフレーズを無尽蔵に考えてくれた。マット・クローへジーは書き譜面でフレーズを指定したレベルをはるかに超えた演奏をしてくれた。コーダでスイング風になるのはご愛嬌。
「魚になりたい」は去年のブルーノートやコットンクラブでトリオで演奏してた曲なのでレコーデイングの最後に楽しみながらリラックスして録音した。僕はいつも自分の縦割りのリズムが気になってこの曲は難曲なのだがメンバーの2人はそんな杞憂もなんのその。エンジニアやアシスタントや映像チームもアメリカ人はみんなノリノリなのに驚いた。
「コスモポリタン」にはジョージ・デユークの「It’s On」辺りのコンピングのイメージでピアノを弾いた。ところが気持ちよくやってるとどんどんなぜかHall & Oats(Daryl Hall & John Oates)に。不思議なもので大好きな70年代80年代が全開でしぶきを上げるともはや理屈が通じなくなる。
結局88年を入り口にしたリユニオン(同窓会)というタイトルの『Class of ’88』なのに、88年リリースの『1234』から選ばれた曲は「Glory Days」1曲だけになった。しかもソロピアノで。一応5拍子を基本に作り込んでいるのだが、案の定レコーデイングじゃその通りには行かなかった。バードランドでのソロピアノでもまた変化した。88年からの1曲が「1人の変幻自在」というのも意図したわけじゃないのに面白い結果になったなと思う。
この私小説をポップにした『1234』からは「昼グリル」や「帰郷」も入れたかったし「サボタージュ」もアレンジを何パターンか作った。でも今回は入らなかった。唯一この手の私小説なポップスで今回選ばれたのは「Avec」。88年より2年前に作った曲だ。贅沢な80年代にどこか懐疑的なスタンスで社会を歌うこの曲が今選ばれたのは、今も尚世界で続く争いへの思いが根底にある。
■今へと続く「本筋」はやはりこの10代の頃に端を発する
6月11日に終えたNYバードランドでの演奏を終えてふと思うことがある。あの2023年のNYのど真ん中で演奏した80年代に端を発する曲たちを、あの時ロンドンやイタリアやフランスから来たオーデイエンスはどういうふうに捉えただろうか?この日のアレンジのジャズを入り口に、原曲のポップスが生まれたあの80年代へと“音の旅行”をしてくれるだろうか?音楽が一枚のアルバムという時間で「物語」を成していたあの頃へ。
『Class of ’88』のことを最後にもうちょっとだけ語ると、このアルバムの実際の主役は実はブランニューの書き下ろし曲「Poetic Justice」「Lauro de Freitas」「Class Notes」なのだろうと思ったりする。「Poetic Justice」は僕の敬愛する作曲家セロニアス・モンクへ、「Lauro de Freitas」はアントニオ・カルロス・ジョビンへ、「Class Notes」はブルース・ホーンズビーへ捧げる気持ちがたっぷりこもった曲。
日本盤に特別に入る「香港ぶるうす」は19歳の時に神戸のチキンジョージで演奏するためのバリエーションとして書いた曲。当時は想像でしかない(訪れたことのない)香港を目に思い浮かべ毎回ライブごとに歌詞を変えて歌っていた。そんなスタンスは現在につながっている。80年代90年代は随分きっちりと書き込んできた僕だが今へと続く「本筋」はやはりこの10代の頃に端を発すると今回のアルバムをレコーデイングして改めて確信した。
60年以上人生をやってるとその感覚自体が曖昧でどうも首尾一貫しない。これだけ悩んでトンネルを抜けて仕上げたアルバムにも関わらず“やっぱり原曲の80年代のものが一番なのかな?”って思う自分もいる。でもそれは当たり前のことでもある。
ブルックリンの低い空の安心感は現在の僕の心の羅針盤だ。人生や音楽はいつだって一期一会。だからこその「最初で最後の物語」がある。渡米しアメリカの音大を卒業し起業しジャズへ転身し僕は想像もしなかった現在へ到達した。過去と現在と未来を自由に行き来するチャンスを得た僕が音楽家である自分を観察する目、それこそが『Class of ’88』には詰まっている。
TEXT BY 大江千里(ジャズピアニスト、作曲家。ブルックリン在住)2023年7月
写真 本人提供
楽曲リンク
リリース情報
2023.5.24 ON SALE
ALBUM『Class of ’88』
2023.6.30 ON SALE
ALBUM『Class of ’88』
ライブ情報
40th Anniversary Celebration 『大江千里 Premium Piano Concert “Door Number “YOU”』
https://www.sonymusic.co.jp/artist/SenriOe/live/
大江千里デビュー40周年プロジェクト スペシャルサイト
http://www.110107.com/Senri40
『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321502000149/
【note】 https://note.com/senrigarden/
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